ぼくらは、自分のことも、パートナーのことも、これっぽっちもわかっちゃいない。
「ぼくらは、本当にパートナーのことを理解しているのだろうか?」
忙しい毎日の中で、パートナーとの会話は、どこか形骸化していないだろうか?
言葉の端々から伝わってくる不満、すれ違う価値観、そして心の距離感。そんな悩みを抱えている方は、きっと少なくないはず。
今回の夫婦関係学ラジオでは、NPO法人Arrow Arrow代表理事の海野千尋さんをゲストにお呼びし、夫婦間のコミュニケーションを深めるための「家族サミット」について熱く語っていただきました。
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「家族サミット」
それは、独立国の首脳とみなされた家族メンバーが定期的に集まり、お互いの考えや気持ちを率直に話し合う場のこと。
いわゆる「夫婦の話し合い」と異なる点は、パートナーを「自分とは異なる人間」とはっきりと規定している点にある。だから、家族”会議”ではなく、家族”サミット”なのだ。
異なる国家間のトップが集まり、他国を理解し自国を理解してもらい、どうやって世界のなかでバランスを取っていくかを話し合う。
家族を外国として扱う? なんて冷めた視線なんだ……。
もしかしたら、あなたはそう感じたかもしれない。だけど、違うんだ。
「自分はパートナーのことをなんにもわかっちゃいない」
その前提に立つことで見えてくる景色があるのだ。
”この人は私のことをわかってくれるはず”
”自分たちは分かり合えているはず”
そんな幻想にしがみついてはいけない。
自分たちは分かり合えておらず、ましてや自分のことすらよくわかっていない。そう認識することで、逆説的にぼくらは距離を縮めることができるんだ。
自分は自分のことを知らない。
千尋さんはたびたびこう言っていた。
「自分でも自分のことをわかっていない」
自分ですら自分のことをわかっていないんだから、家族に自分のことを理解してもらうことは難しい。
伝える努力をしないのであれば、なおさらハードルは上がるだろう。というか、到達困難な課題だ。
なにを課題と感じているのか?
自分はどうしたいのか?
それすらわからないのに、パートナーが超能力的にこちらのことをわかってくれることはあり得ない。だけど、多くの人はこのトラップにハマりがちだ。ぼくだってそうだ。
なにかわからないけどモヤモヤする。モヤモヤがイライラに変わり、家族に八つ当たりする。八つ当たりする自分に嫌悪感を感じつつも、自分の行為は正当なものだと考えている。
そこにはなんの根拠も存在しないのに。
ひどい話と思うだろうか?それとも我が身を振り返って恥ずかしさを感じるだろうか?(ぼくは後者だ)
本当はもっとやりたいことがあるのに。
本当はこんなことに興味があるのに。
本当は忙しい毎日から抜け出したいと思っているのに。
本当は心のこもったコミュニケーションを取りたいと願っているのに。
こういった真の感情は濃い霧に隠され、目の前に現れてこない。
曲がりくねった箱根の山道は霧が出やすい。1メートル先しか見えないため、ゆっくりと進まないと崖から落ちてしまう。
夫婦がお互いに抱えるモヤモヤもそうだ。相手の姿が見えず、自分の行く先も読めず、手探りで前に進んでいく。
先の見えない山道を登るうちに疲れ果て、「もういいや……」と、自分と相手の心を知ろうとする行為をやめてしまう。
その結果、多くの人が脳の側坐核が発する嫌悪感に導かれるままコミュニケーションを断絶し、別居、不倫、離婚などを衝動的に選択する。まるで崖から転がり落ちるように。
わからないことに混乱する必要なんかない。
ぼくらは、自分のことなんて、これっぽっちも、わかってなんかいないんだから。
前提条件を変えるんだ。
「自分のことをわかっている」ではなく、「自分のことをよく知らない」という前提条件に立つんだ。
その前提条件の上で、みずからに問いを投げかけてみよう。
今、あなたが、興味あるモノ・コト・ヒトはなんですか?
まずはここからやってみよう。
パートナーとお互いに問いを投げかけ、紙に書き出してみよう。
これをするまえの大前提としてルールを決めておいた方がいい。
・相手の考えを批判しないこと
批判をされると萎縮してしまい、言いたいことが消えなくなる。心理的安全性がなくなり、話したいという気持ちがなくなるからだ。
批判ではなく、受容を心がけよう。
批判の発生源は「この人は私と同じはず」という無意識の同一化にある。
パートナーと自分は同じ考えを持つべきであり、意見を合わせないと(なんなら、こちらの意見に合わさせないと)いけないという思い込み。気を抜くと、ぼくもこのダークサイドに落ちてしまう。
だけど、違う。
目の前の人は自分とは異なる存在なんだ。意見の相違はあたりまえのこと。
ならば、相手がこちらと同じ意見を持つことはまれだし、意見を無理に合わせることなんてできない。
人は自分の考えが正しいと思いがちだ。ぼくもそう。だから、つい相手の考えの甘い(と思われる)部分やヌケモレを指摘したくなる。
ちなみに、妻に家から出て行かれてしまった男性の多くは妻に説教をする習性が強い。
しかし、本人は説教とは思っておらず、適切なアドバイスと認識している。妻側も自己効力感の低さゆえに夫に意見を伝えられず、我慢するケースが多い。
そのため、妻の不満が静かに大きくなり爆発する日まで、二人とも課題に気がつかないことが多い。
そうなって初めて夫は関係性を修復しようとし、妻は脳に刻まれた夫への嫌悪感に手を引かれ、家から出て行ってしまう。
だからこそ、「自分はパートナーのことなんて、なにひとつわかっちゃいない」という前提条件に立つことが大切なんだ。
それからもうひとつ、パートナーとのコミュニケーションにおける課題の背景には、幼い頃のトラウマが隠れていることが多い。
100人近くの方のお話を聞いてきたが、7割の方が辛い幼少時代を過ごしている。そして、その記憶に蓋をし、暗い井戸の底に閉じ込めている。
不仲な両親、絶え間のない怒鳴り声、兄弟との確執、どこにも安心感が存在しなかった子供時代。
そんな家庭で育った方の多くが、親密感を求めながらも拒絶する。
自分の親密際の課題に立ち向かうとき、あなたは小さな自分と向き合うことになる。
助けを望みながらも救われることのなかった小さな子ども。今のあなたなら、その子に手を差し伸べることができるはずだ。
自分はパートナーのことを知らない
平日の夜、21時頃。
子どもたちが布団にくるまったことを確認したのち、ぼくと妻はワインを飲みながら気持ちをシェアしあう瞬間がある。
といっても、高いワインなんか飲まない。500円以下の高コスパワインがぼくらの好みだ。
子供の声が聞こえない静けさのなかで、妻は感じていることをポツポツと伝えてくれる。
ぼくはこの時間を何よりも大切にしている。妻が夕飯のおかずに使ったポテトサラダをつまみに、時間はゆるやかに過ぎていく。
夫婦の晩酌は週末と決めているのだけど、妻の様子がおかしいときは平日にも開催する。
洗濯、掃除、料理、子供の宿題のチェック、習い事の送り迎えなど。ぼくらは妻の方が負担の多い生活をしている。
それは何度かの話し合いを経てそうなったわけだけど、さすがに疲れることだってある。それに仕事の変化などで生活リズムは刻々と変わっていく。
そんな変化の波を逃すと、きっとぼくらの距離はもっと開いていくだろう。
妻は何を考えているのだろう?
なにを感じているのだろう?
ぼくは、妻のことを、なにも、わかっていない。
その前提に立ち、妻の気持ちを掘り起こしていく。
千尋さんが言うように、「この人はどういう人なのだろう?」と、好奇心をたずさえて会話にのぞむことが重要だ。
妻の話を聞くとき、ぼくは夫ではなく、まるで妻の専属カウンセラーのように接している。
この人の苦しみを取り除きたいと心から願っている。
ときには自分の思いを伝えることもあるけれど、妻の話を聞く時のぼくは妻の感情にシンクロさせようと努力している。
ぼくも妻のことを「わかっていない」という前提に立っているけど、それは彼女の心に寄り添うためのテクニックのひとつなのかもしれない。
同じ景色であっても、ぼくらは異なる景色を感じている。
千尋さんは幼少期を振り返り、自分と母は同じ体験を共有しているにも関わらず、まったく違う景色を見ていたことに驚く。
人の気持ちは聞いてみないとわからない。こんなシンプルなことをぼくらはつい忘れがちだ。
親子や夫婦においては関係性が濃いために、より相手の気持ちを決めてかかってしまうことがある。
ぼくらの長男と次男は双子なのだけど、ぼくは彼らが3歳になる頃に育児が楽になったと感じていた。だけど、妻は彼らが6歳になったときにやっと楽になれたと感じたそうだ。
ぼくにとっては、寝かしつけや夜泣きの対応がなくなったことが根拠だったけど、妻にとっては彼らが自分たちで着替えたりご飯を食べられるようになったことが根拠だったのだと思う。
なぜなら、ぼくが平日に子供たちと接する時間は夜の19時以降だったからだ。だが、妻は違う。24時間365日を子供たちと過ごしていたのだ。
育児に関する負担が圧倒的に大きかったからこそ、妻の方が苦しみをより深く感じていたのだ。ぼくらは小さくかわいい我が子たちを同じように見つめていたのだけど、まったく違う感覚を抱いていた。
この話も週末の晩酌のなかで出てきた話だったと思う。
見ている景色が同じであっても、誰もが同じ感覚を抱くとは限らないのだ。
家族ってなんだろう? 定義は?
千尋さんとの話はファミリー・アイデンティティ(家族の定義)にまで及んだ。
上野千鶴子さんがなにかの本で書いていたが、ある家では30代の女性と70代の男性がともに暮らしている。
だけど、彼らには血縁関係なんて存在しない。その30代の女性にとって、その70代の男性は元夫の父でしかないからだ。単なる元義父だ。
夫と別れた時、義父が一緒に暮らしたいと申し出たのだ。
彼女は「私はあなたの世話はしない。自分のことは自分でやりなさい」と義父に伝え、家事を叩き込んだ。彼らはうまく生活を回し、お互いに支え合って暮らすことになった。
血のつながりもなにもない彼らは、一般的には家族の定義におさまらない。
では、彼らの関係性はいったいなんなのだろうか?
家族とは呼べないのだろうか?
上野千鶴子さんは家族の定義をファミリー・アイデンティティと名付け、伝統的な家族形態に問いを投げかけた。
幼い頃から家族の形に疑問を持っていた千尋さんもまた、サザエさんに代表される家族の形態に問いを投げかけ続けている。
家族ってなんなのだろうと。
ファミリー・アイデンティティから考えるに、家族の定義とは「お互いに支え合う情緒的親密性の高い集合体」なのではないかと、ぼくは考えている。
婚姻関係を結んでいること、親子関係でいること、そういったことは単なる関係性のひとつでしかない。家族の定義ではないのだ。
であるならば、家族だから、夫婦だからと、お互いの気持ちをないがしろにするような集合体は家族とは呼べない。
夫婦も同じだろう。
結婚していることはただの条件にすぎない。そのふたりが真の家族であるかどうかは、お互いに支え合い、強い情緒的親密性に満たされているかどうかによって決まる。
あなたはどう思いますか?
よかったら、パートナーと一緒に家族の定義について話してみよう。
深刻な雰囲気なんて作る必要はない。次の旅行先について話すようなカジュアルに話してみよう。カップルリレーションシップはダイニングテーブルから生まれるとぼくは信じている。
好きな飲み物と食べ物を用意し、子供が寝たあとに、二人だけで静かな時間を過ごそう。
テレビは消し、スマホは遠くに置き、「会話」を楽しもう。
お互いの心を開くことのできるテーブルの上で、ふたりの親密間は作られていく。
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